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佐藤 啓子 先生

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インタビュー:佐藤 啓子 先生


2024年3月8日、文教大学越谷校舎の学長室をお借りして、1993年度の研究科設立から2012年3月のご退職までの約20年間にわたり人間科学研究科の研究?教育活動にご尽力された佐藤啓子先生にインタビューを実施した。

当日朝から舞っていた雪も止み、春の到来を予感させる暖かな日差しが降り注ぐ中での和やかなインタビューとなった。以下はその際の佐藤先生のお話をまとめたものである。

(インタビュアー?記録:宮田 浩二?村上 純一)




Ⅰ 生涯学習学専攻 草創期の思い出

生涯学習学専攻で、私は「家庭教育論特論」という授業を担当させていただいておりました。生涯学習学専攻の初期は外部から入学された方が結構多くて、当時、私は50代でしたが、私より年上の方もいらして、畏まっていました。大学院ができたばかりという教員側の緊張感も、外部から入ってくる方の初めての所での緊張感もある、そんな雰囲気でした。職業的にも色々な方がいらっしゃいまして、看護師さんや、施設に勤めていらっしゃる方、他大学で別のことを専攻されてこられた方や、新聞記者をなさっている方もいらっしゃいました。皆さん折り目正しく、背広やスーツで身なりを整えられていました。学ぶ意欲が旺盛で、折り目正しい方々で、たとえば授業が終わって「じゃあ、今日はここまでにしましょうか」と言うと、みんな一斉に「ありがとうございました」っておっしゃるんですよ。ありがたいことは何もしていないんだけれども(笑)。そういう、学ぶ意欲や礼儀、きちんとした態度、そういった基本的なところが備わっている人たちを相手に、むしろ私の方が恐縮しながら、緊張しながら授業をしていました。

毎年4~5名の受講生たちでしたが、少ないときは、受講者1名という時もありました。その時、受講を希望したが学生が「ひとりなので、どうしようか迷っている」と周りの人に話したらしいんです。すると、一人の友達が「私、一緒に受講する」と言って、単位に無関係で受講するという人もいました。

そういう、大学院生の学ぶ意欲、単位には無関係でも受講するという意欲や姿勢にはとても感激し、嬉しかったですね。



Ⅱ 授業「家庭教育論特論」について

私の科目は、先ほど申し上げましたように「家庭教育論特論」という科目でした。初めの頃はたしか、諸外国の家庭教育をテーマにしていました。諸外国においての家庭教育の特色が分かるようなことを、私が中心になって話し、受講生も調べ、報告しあいました。ところが、なかなか文献が見つからず苦慮しました。

でも、苦慮しながらも、著者が実際に世界を旅されて世界の家庭でのしつけや教育をまとめられた著書を見出したり、他の参考文献や事典を手掛かりに、諸外国の家庭教育を紹介しながら授業していました。

最初の1、2年、そういうことをしていたんですが、やはり日本の国にいながら遠くのことばかり学ぶよりも、身近なところで身近なことをやった方がいいのではと思い直しましてね。それからは、日本の家庭教育を中心に、自己体験を含めながら、自分の求めたいテーマに基づいてそれぞれ分担しあって報告するという形に切り替えていきました。演習形式ですね。それぞれ考えることや述べること、集約することが違うので、大変面白かったです。



Ⅲ 大学院教育に込めた思い

私が所属していたのは、「生涯学習学専攻」でしたが、当時はまだ世間でも「生涯学習とは何か」というのがあまり知られてはいませんでしたし、生涯教育と生涯学習も未分化な状況でした。学部のコースでも大学院の専攻でも、教員の間でさえそこに精通しているのは野島正也先生だけで、私も含めて多くが門外漢でした。しかし、所属した以上は知らないでは済まされませんので、猛勉強をしまして、1995年から3年間にわたり、「生涯学習社会における家庭教育」(1)(2)(3)という論文を本学の紀要に発表するなどして、私なりに努力もしました。で、私、その頃からずっと疑問に思っていて、未だに疑問に思っている解けない謎があるんです。それは何かと言いますと、ひと言でいえば「連携の教育」が必要ではないかということです。というのは、私は「家庭教育論特論」で、生涯学習や人間教育と言っても家庭をメインにして子どもの教育を扱っていたんですけれども、専門を追求していくとき、一人で出来ることもありますが、他領域と共同?連携しながら進めた方がより効果が期待される、という事が出てきます。これに関連して原点に立ち返って考えてみますと、そもそも人間科学部の設立当初、創設の中心的役割を担っていらした水島惠一先生が「総合コース」というコースを提唱なさったんです。

人間科学部設立の趣旨は、心理学?社会学?教育学という大きな柱を総合的?科学的に捉えながら、人間とは何か、人間の存在の基本にまで立ち入って総合的に捉えるというものだったのですが、より一層特色を出すために「総合コース」というのを創られのです。

「総合コース」というのは、心理、社会、教育という個別のところに所属し深めるだけではなく、そこに所属する学生はむしろ心理学?社会学?教育学の領域や先生方のそれぞれから、学びたいところを取り入れながらというのかしら、人間の問題を研究したり、論文にまとめていくという構想だったんです。私は個人的には凄く面白いと思って、賛同していたんです。そういう、連携しながら、総合しながら考えていくという、総合的人間観を持てる学生が育つことはこれからの社会にとって必要で、重要だと思って賛同していたんです。で、設立後4年間経って、学部設立の見直しが必要になり、そういうコースがあることの意義を教授会で取り上げて考え始めたことがありました。ところが、多くの先生方は、やはりすごく分かりにくい、そういう捉え方は学生も混乱するし、そもそも教員が混乱している、という意見が多かったのです。教員は、細く深く勉強してきた人たちですから、こういう観点ならこういう分野からは物が言えるけれども、他のコースは他の人にお任せする、触らない方がいい、という観点に立ちやすいんですね。そういう勉強をしてきた人たちの集まりですから、学生たちにはユニークな人たちも育っていたんですけれども、学部の教授会では賛同する人が少なかったのですね。私は心の中では賛同していましたものの、当時は賛成意見を述べるほどの勇気も能力もなかったのです。その結果、「総合コース」はやめて、その代わりに、「福祉」という新しいコースを設定し、心理?教育?社会?福祉という4つのコースで進めることになりました。そういう経緯が学部の方であったんです。

私がかかわり続けていた家庭教育の問題や、「男女共生」では、私ひとりが力んでも解決しにくい問題がだんだん見えてきました。たとえば暴力の問題ですね。家庭内で親は子どもの自主性を尊重しましょう、子どもに寄り添うような態度が大切、というように、教育的な観点からは色々言えましても、それでも暴力をふるったり、虐待する親もいれば、子供が暴力をふるうという事も出て来る。そうすると暴力というものが出てきたときに、親はその暴力に立ち向かって暴力を使えばよいかというと、それでは解決にならない。暴力と暴力では戦いであって、今の世界戦争みたいですが、やはり法的整備を含めた社会の仕組みづくりや、あるいは心理的に、遺伝的な要素もあるかもしれないという考えもある。つい先ごろも、子どもが親の虐待、暴力に遭って殺されてしまうという事件がありましたよね。それで「これは虐待だから福祉の問題だ」とか、法や制度等を整備するなど外側からの規制や仕組みづくりを考えると、それは社会学の問題にもなる。それから、遺伝や犯罪の系列で、何かというと暴力に訴えやすい体質や遺伝など、そういう傾向を見る視点で犯罪者の系列を調べるのは心理学の領域。そういうふうに考えると、男女共生にしてもそうですが、やはり心理学や社会学、教育学に跨ってくる。家庭における男女共生も、私の家では夫も家事もやりましたし、子育てにも関わりましたが、家庭教育論だけで考えるのではどうしても限界があるんですね。働き方改革も、今も話題ですけれども、私が在職していたときも、やはり法整備が必要ではないか、と言われていた。では法をどう整備するかというと、これはもう社会の問題になりやすいでしょ。そういう問題であるとか、それから、個別の好き嫌いの問題もありますよね。「男女共生は大切だと思うけれども嫌だ」とか。そういう「嫌だ」というものをどう「大切だ」に変えていくかというと、今度は会社とか、外側からの体制を整えていって、男女がともに関わりやすいようなシステムを考えていかなければならない。そういう仕組みづくり、社会の仕組みづくりというのも必要になってきて、そうすると教育という分野に関わっている私の領域だけでは収まりにくい問題が出てくる。

そこで、少し前に述べました総合的な視点、あれは学部では無理かもしれないけれども、大学院であればこれは出来るかもしれない必要なアプローチであって、むしろ学生たちが単独で個々の領域を深めるというよりも、心理的?社会的?教育的なアプローチを訪ね歩くとか、学生たち同士も心理?社会?教育が寄り集まってテーマ別の講座を設けるとか、そういうふうにして総合的に、まさに総合的にディスカッションをするようなアプローチがあってもいいんじゃないかと思いました。人間科学部が出来てから十何年も経って大学院が出来て、大学院であれば可能なのではないかと思っていました。それには、教員もお隣さんの他領域と専門的に知り合うような、教員同士も時々ディスカッションするとか、少し領域を拡大するということを通してそれぞれのテーマを、隣接領域も重ね合わせながら自らのテーマを深めていく、そういうアプローチが必要じゃないかなと思っていたのです。そしてそれは、大学院であれば可能なのではないかということを、20年ほど経った頃にふと思ったという経緯があります。だから、これからでも遅くないから、そういう可能性も少しはあるかもしれないと思って、この機会を契機として、是非頑張っていただきたいと思います。なかなか難しいかもしれないけれども…。

共同研究はその一端を示すものだと思いますが、及ばずながら、私が呼びかけて実践したことがあります。それは、佐藤啓子?岡本かおり?谷口清?宮田浩二?野島正也「生涯学習の実践的学修方法についての研究―諸方法の実際とその意義?効果について」を発表したことです(2011年3月発行『人間科学研究』第32号所収)。残念ながら、時間の不足もあって、より協議を深めるというところまでは行ってはいないので、真の連携とまでは言いにくいのですけれども、少なくとも、心理学と生涯学習領域が重なりながらの研究的取り組みという形式は整えられていると自負しています。



Ⅳ 人間科学専攻に改組した頃の思い出

大学院30年のうちの真ん中あたりの10年間は、学部からの学生たちが多く集まりました。いつも賑やかに、研究室で授業をしていました。和やかな雰囲気で、専門外のところで人間関係を深めていったという事がありました。当時の大学院生たちは和やかで、学部から来た学生たちは気心も知れていたし、卒論指導や研究生で関わった人たちが中心だったので、何を話すのにもある程度予測が付いた。楽しみながら研究をすることができたというのはよかったですね。研究や学習というと何か堅苦しい、何かを求めなければいけない、結論を出さなければいけない、次世代に向けて課題を残していかなければいけない、ということに追われるようなところがあるんですけれども、あまりそういうのはなくて、ひと通り私の言うことは分かっていて、その先を進めていこうという人たちが多かったし、私の卒論生や研究生ではなくてもお隣様ですから、どこかの授業では顔を合わせていて、「あぁ、あの先生が話すことだから、次にはこういうことを話しそうだ」という予測が付くので、あまり「知らぬ、存ぜぬ」というところはなく、ある程度知りながら先を進めていこうという人たちに囲まれながら、私も言いたいことが言え、より広がった学習をすることができました。だから、学びながら、楽しみながら、というのが普通だったというような記憶がありますね。とても楽しかったけれど、逆に緩みすぎて、今ふりかえってみると、ちょっと緩みすぎたかな、と…。大学院はもっと学問を深めるところであるし、専門性をもっと深めるところでもあるので、もうちょっと緩まないでやった方がよかったかなという自己反省はあります。楽しかったと同時に真面目さがちょっとだったかなぁ。



Ⅴ 教員について

当時の教員に関して言いますとね、みんな、忙しさの中身は違ったけれど、お昼休みもゆっくり休む時間がないという人が多くて、学生と話して、あと10分で昼食を食べなきゃ、というくらいに年中忙しかったという事が思い出されます。学部のコースによっては昼食だけは先生同士で集まって、そこで重要?非重要に関わらず話をしていたというグループもありましたが、私たちのところはあまり集まって食事というのは、ありませんでした。大学院の専攻毎にというのはもっと少なく、会議以外の交流はほとんどなかったんですよ。大学院の専攻科は、学部よりも専門の異なる教員たちの集まりですから、中々難しかったですね。

人間関係的にも、専門が近いと競争心や嫉妬心が生じやすいという話を聞いたことがありますが、私の知る限り、私たちの学部でも大学院でも、派閥や教員同士の特別なグループが出来て、「向こうのグループが言ったから反対する」というような、そういうのはなかったんです。それほど互いに深入りせず、適度な距離を保ってみんな仲良しで、うまく生活していました。



Ⅵ 人間科学研究科へのエール

それぞれの方が、個別に研究を深めていくというのも大切ですけれど、そもそも、なぜ人間の科学を研究しているのかという前提を忘れてはならないと思います。

現下の世界情勢を見てもわかる通り、心を痛めずにはいられない事態が多々生じています。人間の社会に生きている限り、どんなに弱小に見える個人であっても集団であっても、国であっても、それぞれに固有の歴史や文化的社会的背景をもって存在しています。それをそれなりの特色として活かし合い、認め合い、育て合いながら交流していくというのが人間の科学ではないでしょうか。単独の個人や集団や国が、自分たちだけの利益や発展のために他を蔑ろにするというのは、人間科学の目指すところではないはずです。全体的視点に立ち、大きくは世界平和を希求するのは、政治家ではない限り、難しいことですが、私達の求めるものと無関係ではありません。

そのために、先ほども少し話しましたけれど、連携しながら研究学習し、出来るところから小さな一歩を見失わない研究者というのであって欲しいというのが1つの提案です。本研究科の院生だからこそ、教員だからこそ、それができる位置にいると思います。院生も教員も、メインはこういうテーマだけれど、あっちの領域から、こっちの領域から、というプロセスの中で他領域から学べる知識というのはたくさんありますからね。そういうところで学ぶ機会があると、学問的にはもっと深まると思いますし、広がると思います。それは制度的にそういうのをつくらないと出来にくいという事もありますが、日常生活の中での小人数での集まりの中に連携的な要素を取り入れて話し合う?触れ合うというところから始めてもいいと思います。

文教大学は「人間愛」の精神を掲げてやってきていますが、これも無関係ではないと思います。世界のどこかで飢えて苦しんでいたり、暴力や爆弾で命を落としていく人たちがいるのは、人間愛が実践されていないからです。少なくとも、世界のどの人や集団も、他者から愛されているという実感が持てる世づくりに貢献していきたいものです。文教大学も、人間科学研究科も、その最も近くにいて、研究や学習ができる位置にいると思います。

本日、私はインタビュアーの宮田先生、村上先生をはじめ、中島学長さん、大木人間科学部長さん、元同僚の鎌田先生、事務局の菅沼さん、金田さん、小松原さんたちの歓待を受け、本当に愛情豊かに受け入れていただきました。まさに人間愛がお飾りではないことを、改めて体験致しました。この素地があればこそ、世界平和への道筋から離れていないと実感いたしました。 破壊された建物のそばで、大きな瞳に涙を浮かべながらお鍋を差し出して食べ物を欲しがる子供達や、恐怖に慄く大人たちがどうしたら愛に包まれた体験ができるか。そういう人たちこそ、愛に包まれてほしいのです。その実現は難しいかもしれませんが、少なくとも、私達に出来ることは、遠くの国の出来事として無関心でいるのではなく、課題として考え続けるだけでも、大切だと思うんです。

本日は、いろいろと考える機会を与えて頂き、誠にありがとうございました。






越谷校舎正門にて、
佐藤先生とインタビュアーで記念撮影