馬田行啓は1917年32歳で早稲田大学出版部より『印度仏教史』を、1928年43歳で『日蓮聖人の宗教及哲学』を著し、1932年47歳で『日蓮聖人の思想と宗教』という3冊の学術書を刊行するなど、仏教史の分野で貴重な功績を残す学者であった。さらに、1928年には大東出版社が取り組んだ一大事業である『国訳一切経』刊行の第1回配本である『法華部』の翻訳及び註解の著者としても知られる。そのほか、1930年から1938年までの間に、日蓮に関する啓蒙的な優れた著作が6点ある。優れた学者でありながら実践の人であった馬田行啓は、1927年10月17日、立正裁縫女学校と立正幼稚園からなる立正学園を小野光洋らとともに開設した。これよりさき、1919年に日蓮宗大学の教授になっていた馬田行啓は、立正大学が大学令により設立認可される1924年まで、昇格準備のため情熱を燃やし、東奔西走していた。馬田行啓はまた、日蓮宗の僧侶としても精力的に活躍し、1936年には日蓮宗教学部長に、1941年には日蓮宗宗務総監に任じられなどして、戦時下で宗教統制という圧力のかかったなかで、苦渋の選択を強いられながら宗門存続と学校を守るため、再び東奔西走の多忙な日々に明け暮れした。そのために本来の研究活動は頓挫したかのようであるが、実は長い間の研究も人間愛の実践のためであって、その深い確証を得んがためのものだったのである。法華経すなわち釈尊の精神を、実際生活の上に実現させようという確固不動の信念を得、自分に与えられた役割がどのようなものであろうと、ただ一心不乱に働き、未来の浄土でなく今この場を楽しい朗らかな場所にしていこうということに尽きていた。この理想の信念を体した人間愛の風光が今でも学園の空気となって大勢の教職員から、園児、生徒、学生達を育んでいるのである。
学園案内Academy
文教大学学園の創立者
本学園は、1927年(昭和2年)に、女子教育の先覚者であった二人の教育者によって設立されました。ここでは、仏教学者としても知られた馬田行啓(1885~1945)と、戦後日本の私学復興に大きな功績を残した小野光洋(1898~1965)の二人の創立者をご紹介いたします。

右:文教大学学園 旗の台キャンパスにある馬田行啓(左)と小野光洋(右)の胸像
創立者を知る「馬田行啓」(1885~1945)

馬田行啓 略年譜
略年譜
1885年 (明治18) |
福井県今立郡国高村瓜生(現在、越前市:2005年に武生市といま立町の合併による)に馬田茂右衛門三男として生まれる。 |
---|---|
1895年 (明治28) |
得度して幼名乙五郎を行啓日運と改名。 |
1909年 (明治42) |
早稲田大学文学部哲学科を卒業。 |
1910年 (明治43) |
早稲田大学宗教研究科修了。 |
1919年 (大正8) |
日蓮宗大学教授、日蓮宗大学内社会問題研究会長。 |
1924年 (大正13) |
立正大学部教授。 |
1927年 (昭和2) |
立正学園を大崎町桐ケ谷に開設し、裁縫学校、幼稚園を経営する。 |
1928年 (昭和3) |
財団法人立正学園設立認可及び、立正女子職業学校、立正幼稚園設立認可され、理事長、校長、園長に就任。 |
1929年 (昭和4) |
立正学園を荏原町中延に移転し規模を拡大。 |
1932年 (昭和7) |
立正学園高等女学校(5年制の女学校で教員数10名、生徒数155名の4学級)の設置が認可され校長となり、従来の学校を立正学園高等家政女学校(職業学校)と改称。 |
1945年 (昭和20) |
12月17日、61歳で死去。12月23日立正学園校葬。 |
1952年 (昭和27) |
身延山清兮寺に墓碑建立。 |
馬田行啓先生の主な著作
1917年 (大正6) |
印度佛教史 早稲田大学出版部刊 |
---|---|
1928年 (昭和3) |
日蓮聖人の宗教及哲學 丙午出版社刊 |
1928年 (昭和3) |
法華部(全)(國譯一切經)大東出版社刊 |
1930年 (昭和5) |
日蓮篇(全)(佛教信仰實話全集 第10巻)大東出版社刊 |
1932年 (昭和7) |
日蓮聖人の思想と宗教(佛教思想大系 第20巻)大東出版社刊 |
1935年 (昭和10) |
日蓮(日本佛教聖者傳 第9巻)日本評論社刊 |
1935年 (昭和10) |
朝の修養 開目鈔講話 大東出版社刊 |
1938年 (昭和13) |
新時代の日蓮主義 大東出版社刊 その他多数 |
日蓮宗での活動
1936年 (昭和11) |
教学部長、社会部長、日蓮宗布教師会本部理事長に就任。 |
---|---|
1941年 (昭和16) |
宗機顧問、宗務総監に就任。 |
創立者を知る「小野光洋」(1898~1965)

小野光洋は、本学園の創立(1927年)に馬田行啓と共にかかわった。立正学園は、高等女学校、高等家政女学校、幼稚園で園児?生徒約2,000名を擁するまでに成長していたが、1945年5月23日の空襲により、幼稚園舎を残すのみ灰燼に帰した。小野光洋は、さらに同年12月17日には、学園の大黒柱であり、学生時代からの師でもある馬田行啓を失った。1946年、馬田行啓先生亡き後、理事長兼校長に就任した小野光洋は、同じく戦災で再建の目途も立たない多くの私学校と共に、国や地方公共団体から私学助成の道を開かんがために日本私学団体総連合会の結成に奔走し、1947年、戦後初の第1回参議院議員選挙に全国区から立候補、どうにか下位で当選を果たした。当選後、文教および予算委員として、また私学の代表として、私学振興はもちろん、わが国の文教政策の進展に大いに貢献し、戦災で壊滅に等しかった私学の復興と発展に努力された。とくに1948年10月には文部政務次官となり、念願の私立学校法等の私学三法の制定に献身的な努力を捧げた。その後、亡くなるまでの戦後20年にわたっての私学への貢献は、小野光洋の最大事業であった。その活躍は、私学全体の繁栄に大きな功績を残し、今日見る私学研修福祉の殿堂である東京市ヶ谷の私学会館はその記念碑ともいえる。小野光洋が教育の目標としたことは、教育によって一人一人が生活資力を高め国力を豊かにし、国民全体が平和で朗らかな生活を営むことである。そして世界全体が人間相互の幸福と発展を願い、あらゆる面で切磋琢磨していかなければならないという人間愛に根ざしたものである。
小野光洋 略年譜
略年譜
1898年 (明治31) |
山梨県東八代郡富士見村東油川(現在、笛吹市:2004年に東八代郡と東山梨郡の6町村の合併による)に父小野日祥?母なおの長男として生まれる。幼名みのる。 |
---|---|
1918年 (大正7) |
山梨県立甲府中学卒業。日蓮宗大学補修科入学。妙油寺住職小野日祥の徒弟として得度。 |
1924年 (大正13) |
日蓮宗大学本科卒業。 |
1925年 (大正14) |
日蓮宗大学が前年に大学令により立正大学に昇格したため、文学部哲学科に再入学。 |
1927年 (昭和2) |
馬田行啓先生と立正幼稚園、立正裁縫女学校からなる立正学園を設立。 |
1928年 (昭和3) |
立正大学文学部哲学科卒業。 |
1929年 (昭和4) |
光洋と改名。立正学園を旗の台現在地に移転。 |
1932年 (昭和7) |
立正学園高等家政女学校、立正学園高等女学校教頭に就任。 |
1946年 (昭和21) |
馬田先生の遺志を継ぎ、立正学園理事長に就任。立正学園高等家政学校?立正学園高等女学校長に就任。 |
1947年 (昭和22) |
学制改革により、立正学園中学校、立正学園石川台中学校長に就任。 |
1948年 (昭和23) |
学制改革により、立正学園女子高等学校、立正学園石川台女子高等学校長就任。また、立正学園第二中学校(後に溝の口中学校と改称)を設置して校長に就任。 |
1949年 (昭和24) |
閉鎖中だった立正幼稚園を再開。 |
1951年 (昭和26) |
立正学園小学校、立正学園溝の口小学校を設立し、各校長に就任。 |
1953年 (昭和28) |
立正学園女子短期大学を設立し、初代学長に就任。溝の口幼稚園を設立し、園長就任。 |
1965年 (昭和40) |
腸ガンのため慶大病院にて死去、享年67歳。11月28日、学校法人立正学園ほか6団体の合同葬。 |
私学界での活動
1946年 (昭和21) |
東京都私学協会常任委員、私学総連合第三部長に就任。 |
---|---|
1947年 (昭和22) |
日本私立中学高等学校連合会理事長に就任。参議院議員当選。文教委員、予算委員として活躍。 ※ 参議院の「国会会議録検索システム」を利用して小野光洋の発言記録を読むことができます。 |
1948年 (昭和23) |
第二次吉田内閣の文部政務次官として私学予算獲得、私学三法制定に献身、私学復興に尽力。 |
1949年 (昭和24) |
法隆寺金堂壁画焼失の責任により文部大臣とともに文部政務次官辞任。 |
1950年 (昭和25) |
第2回参議院選挙に再度立候補するが落選。 |
1953年 (昭和28) |
私立学校教職員共済組合設立に関わる。 |
1954年 (昭和29) |
私立短期大学協会を設立し、副会長に就任。東京都私立短期大学協会を設立し、初代会長に就任。 |
1956年 (昭和31) |
市ヶ谷の私学会館の建設に尽力。 |
1963年 (昭和38) |
財団法人私学教育研究所を設立、八王子に研究所を設立。 |